雀のしっぽ。

ひっそり生きている

善悪の彼岸

 

性善説だとか性悪説なんてものがある。

生まれながらにして人は善人だとか悪人だとか。

 

正直、他人の本質なんてものはどうでもいいと思う。

表からどうやったって見えない物を拘ったって仕方がない、数値で表せない物を争ったって仕方がない。

 

結局本当に大切なのは表面であり接するその人のその人格であり、自分がそれに受ける影響だ。

 

本質が善人だろうが悪人だろうが

私達は生まれてから「善」と「悪」を教えこまれる。

だから生まれてから教えられる物を本質だとか言ってる時点でお門違いだと思うし、そもそも善悪の判断なんてものは野生の世界にはないわけで人間がとってつけたルールにすぎない。

 

イタズラをした飼い犬を叱れば、イタズラをすれば叱られると覚えるけれど(悪であるという判断がするかは別としてもしてはいけないということは理解する)、元々は犬の中に善悪なんてものは存在しない。

多分、悪を「叱られる行為」善を「褒められる行為」と認識は出来ても、それが自分自身で善か悪かなんて思考はないし感情はない。

 

善し悪しなんてその程度だし、あくまで後付けであり、人が生きるための規則というだけだと思う。

 

 

つまり、自分より劣る人や可哀想な人、恵まれない環境の人を見て「同情する」とか「手を差し伸べる」なんていう所謂善行は、そのルール上いい事でそうすれば自分の株が上がる、周囲から褒められると、子供の頃から刷り込まれて覚えたが故に自然とやっていることになる。

 

そうやって覚えた「善悪」の精神によって

人間なりの「善意」と「優しさ」で誰かを救おうとしたり助けようとしたりする。

私も、誰かも、貴方も。

 

でも所詮、誰かを同じ人間である誰かが救おうなんて無理な話なんだ。

どっかのアニメじゃないけど「誰かが助けるんじゃなくて、本人が勝手に助かるんだ」と。

 

「僕だけは味方だから」とか「離れていても家族のように思ってるし信じてる」とか「他の誰が見捨てても絶対に助ける」なんて言葉を幾度も聞いた気がする。

 

そうして私も、数少ない友人とのそういう親しい関係に現を抜かして調子にのって、そんな安い言葉に同調する。

 

そしてどこかで掌返しを喰らう。

 

自分に非があったのか、相手に非があったのか、はたまた誰にも非なんてなくてそういう風に出来ていたのか。

いつも私には分からない。

理由も理屈も分からないまま、気付けばまた同じところで勝手に絶望している。

 

まぁいいんだ。

所詮、友達なんてそんなもんだ。

その時その時、時間を埋める程度に、世間体に障りない程度の付き合いが出来る人が数人いればそれでいいんだ。

その関係に本当なんて要らないし、善意も要らない。

悪意さえなければそれでいい。

 

そして悪意が芽生えたらさようなら。

 

そんなかんじ。

 

 

小学生の頃から、私が仲良くなる子は翌年には皆転校する呪いにかかってたので、ずっと仲のいい子、なんていうのはいなかったし

なんだかもう既にその頃から友達というものには恵まれない人生な気がする。

 

中学の頃は、荒れてたのも然り、友達出来ないけど彼氏いるからまぁいっかってなってたし

そのまんまズルズルここまできたらこうなった。

 

今?

結局、「友達いないけど彼氏いるからまぁいっか」ってなってる。

 

適当にインターネットでちやほやされて、愛されてる気分になって、たまに誰かと会って、お友達ごっこをしてもらって、友人関係なんてもうそれでいいじゃない。

 

同性と仲良くなるの苦手すぎて、ビッチよわばりされてるのも猫かぶりよわばりされてるのも知っているけど、誰彼構わず股開いてる君たちとは違うし、猫かぶれてたらもう少し同性の友達とだって上手くやれてるよ。やれてないからいねぇんだよ。と思う。

 

友人ですらない彼らとは関わりたくもないのにわざわざつっかかってくるのがもう面倒くさすぎて開き直って、「彼氏いるから友達要らないです」とまで言ってしまったけど。

まぁ、強ち嘘ではない。

 

そんなかんじ。

 

ああそうだ。

最後に、きっとこれを読んだ大半の人が思うことを先に書いておこう。

 

 

Q.「友達要らないなら、なんでわざわざSNSしてんの?わざわざブログにこんなこと書いてんの?」

 

A.「友達が要らないは語弊があるな。訂正します。ちやほやしてくれる自分に都合の良い友達か必要以上に干渉しないで適当な距離を保ってくれる頭数の友達以外は要らない。」