雀のしっぽ。

フィクションとノンフィクションです。

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自分の身の程は自分が一番よく知っているので

本当に私なんかがどうしてって思う。

 

自分自身を卑下して否定するのは

私を選んで私という人間を認めて今の私全てを好きでいてくれる周りの人達に対して失礼だってことくらい、頭ではわかってる。

でも仕方ないよね、私は普通じゃない。

普通のことが普通に出来ない。

普通になれない。

 

空から降ってきた幸運を、きっとなんかの間違いだと思ったし、きっとまだ騙されてるんだろうなと思ってたし、きっと今も冗談半分でその壁の後ろからドッキリ大成功と書いた看板が出てくるんだって身構えている。

 

そしてそれがもし0.1%くらいの期待が当たって本当だとしたら、信用しなかったことを私は一生後悔するし、それは間違いなく相手も傷付けることだ。

 

困った。

 

どうせ終わる前提なのだから1度くらい全て預けて委ねて見ればいいんだって何人にも言われてる。

その踏ん切りはどこで付ければいいのやら。

 

感情を当たり前に垂れ流して、弱音や本音をぶつけて、第三者からみた自分の姿なんて気にしないで泣いたり笑ったり出来たらきっと楽に生きていけるのだけど

23年間押し殺してきた蓋を今更開けたって、開かないのよ。開け方だって分からない。

 

例えば寂しいとか、甘えたいとか、慰められたいとか、なんかそういう人間らしい可愛げはどこに忘れてきたんだろうか。

そういう感情がどうしたらまともに表現できるのか。

 

何かが悲しくて泣いていたって、自分でも何が悲しいのかすら分からないのよ。

自分でも分からない感情を誰かに伝えるなんて出来るわけないよな。

 

こんな性格してるからまた99.9%の方だと思うよ。

自己欺瞞

嘘だと知っている言葉を気付かないフリをして飲み込む。

来ないと知っているいつかの予定を心待ちにするフリをしてカレンダーに書き込む。

 

そうしてありもしない幸せがそこにあるようなフリをして笑っている。

 

他の人の手にある光が まるで自分を照らしていると錯覚する。

本当は気付いている。

本当は分かっている。

本当はもうやめてしまいたい。

それでもやめないのはどうして?

遺書を書きました

軽い気持ちで死にたいって思うことくらい誰でもあるだろうけど、23年間生きてもう十分だなぁと思った。

 

子供の頃から、一番近しい大人に人格を否定されて暮らしていたら、どこかがおかしくなってしまったようで、普通のことが出来なくなった。普通のことも出来ない自分を大切に出来なくなった。

 

もう何年か前から、早く終わらせたいなぁってそればかり思ってたし

それでも3%くらいの希望に縋って生きてきたんだけど、そんなものないことはとっくに分かってたし

そしていよいよ、何かに期待するココロも、呼吸するだけのカラダも限界になった。

 

当たり前のことが当たり前に出来ない

出来ないことを誰かに言えない

それで普通のフリをして生きている

それが辛いと誰にも言えない

 

「ちゅん」という私はいつも誰かに好かれて、誰かに望まれて、誰かに期待される私だったけれど

「本名」としての私はひとりで籠の中でうずくまっていた。

 

「ちゅん」を演じて「ちゅん」として生きてきた。

私の名前はなんだっけ。

 

誕生日が来たら、好きな服を着て、好きなメイクをして、好きなアクセサリーを身につけて、好きな音楽を聞きながら、好きな場所に行って、そこで死のうと思っていた。

 

パソコンのHDDを初期化した。

昔書いていた恨み言ばかりの日記を処分した。

集めていた趣味のコレクションをフリマアプリで手放した。

私という人間がここに生きていた痕跡をひとつひとつ拭った。

 

死んで誰かの記憶になんて残りたくなかった。

存在ごとなかったことにしたかった。

生きいたのは私じゃなくて「ちゅん」だから。

「ちゅん」が死んで悲しむ人はたくさんいても、私が死んで哀しむ人は居ないから。

まぁ、そういう生き方を選んだのは紛れもなく自分なのだけれど。

 

終わるまであと何日かって指折り数えた

なんだか気持ちが楽になった。

 

死にたい自分を肯定したら、まだちょっと生きていられる気がした。

それだって生きたいとは思えなかった。

 

それなのにあんな簡単な理由で、私はまだ生きている道を選んでしまう。

23年間の地獄をまだ続けようとしてしまう。

 

どんなに辛くてもどんなに悲しくても、人間は心のどこかで生きていたいと思っている。

きっと生物ってそういうもの。

そう分かっていても、私は生きたい自分を肯定出来ない。

 

当たり前のことを当たり前に出来ない自分を許せない。

生きていいと思えない。

何も出来なくなってしまった自分を認められない。

 

それなのに、また明日も明後日も私は生きている。

 

どうして?

 

 

 

 

バフ解除

なにかの歌で

「愛してる」の響きだけで強くなれる気がしたよ

なんて歌詞があったけれど

本当に愛の言葉は魔法だと思う。

 

その言葉が嘘か真実かはさておいても、愛を囁かれるだけでなんとなく生きていられる、強くなれる、なんだか前向きになれる、まだ頑張れる、ような気がする。

まぁもちろん気がするだけなんだけど。

 

しかし魔法は永続ではないので一定時間経つと効果は切れてしまうし、打ち消し魔法で解除されてしまうし、つまり誰かが隣で定期的に魔法をかけ直してくれないと頑張れそうにない。

 

そしてきっとそんな人が居れば、私は来週もその先も生きていた。そう思った午前四時。

@18

あまり人を信じないし、逆に疑いもしない。

そもそも期待をしない。

 

うっかり思い入れなんてものを持ってしまうと、裏切られたりその期待に背かれたりした時に立ち直れなくなる。

 

なった。

 

何が悲しいのかも、何が悔しいかも、何が辛いのかも、伝えられない。

感情を感情として表現することが苦手だ。

誰かの前で感情に任せて泣いたり笑ったり怒ったりそういうことが出来ない。

そういう自分を第三者目線で見てとても滑稽だし醜いと思ってしまうから出来ない。

私は私が作り上げた私を演じる。本心は無意識のうちに殺す。

 

そうして誰にもいえない苦しさを自分の中に溜めていく。そしてパンクする。

 

 

した。

 

 

人間はみんな誰かに肯定されるから生きていける。

世界のどこかには自分の絶対的に信頼出来る人がどこかに存在して、自分が全てを委ねられる相手がいる。

家族だったり、親だったり、恋人だったり、親友だったり。

 

私はいないけど。

 

だから誰かに肯定しもらうためにSNSで作られた私を演じる。

可愛いねとか、すごいねとか、薄っぺらい言葉で胸に空いた穴を埋める。

そうやって息を吸っている。

 

誰かに肯定されたところで、それを素直に受け入れられなくて、他人から見た自分と本当の自分とのギャップで騙してる気分になって、肯定されるようにならなくちゃって無理をするから結局根本的な解決にはならなくて、何も楽になんてならないのだけど。

 

それでも誰かが「生きて」と言ってくれたら生きていたし

誰かが「信じて」と言ったら信じてきた。

そうしている間はまだ生きていいような気がしていた。

 

私は自分の生を誰かに委ねて生きてきた。

そうまでして理由を作らずには生きられなかった。

当たり前に生きていたいと思う自分を許せなかった。

だから、誰かに生きていることを肯定してもらって、死にたい自分を肯定してもらって生きている。

 

そしてそれを引き止めるものが何もなくなった今、私はあと残りの日数を数えるだけになった。

もうあと残り僅かだって分かっていたって苦しい。はやく終わってほしい。

アスファルトに落ちた蝉ですら死ぬギリギリまでじたばたと藻掻いているというのに、私はもうそんな気力もなくて、この6畳の中で屍と化している。

 

 

あと18日。

今年の誕生日はひとりで地獄に行く。

 

あと18日。

生きていていい理由が欲しかった。

 

あと18日。

はやく終わってくれ。

 

死して尚も死ぬ

いつだって私の死にたい気持ちは私だけのものだ。

何ひとつ分かっちゃいないくせに分かったようなフリをする、そして分からずとも分かりたいと思っているなどと軽々しく言いながらその感情を踏み躙る人に口を出されたくない。触れられたくない。

いじめがあった時に、実態を知っていながら何もしなかった黙認していた、のは加害者と大差ないと言うのだから、これもある意味そういうことだと思う。

加害者だとまでは言わないけれど、当事者から取ったら味方なんて1人もいないんだ。

もしそれでも私に対する好意が、愛情がというなら、1度でも私の中で壊れているものを埋めてくれたことがあったんだろうかと尋ねたい。

私は普通じゃないから、他人と同じ土俵で同じクオリティで行動することですら、私にとっての精一杯だった。ギリギリだった。だからそれすら続かなかった。

でもそれで見切りを付けるならその時点で付ければよかった話で、それを口で分かったと言いながら首を絞め続けていた。

分かったって、何を分かったの?

じゃぁ何をしてくれたの?何を汲んでくれたの?

ああするよこうするよって口先だけだったじゃないか。

 

言われた通り。

普通に生きることすら出来なかったのは私なんだよ。そんなことはわかってる。

でもそれは生ぬるく普通に生きていられる人間が言っていい言葉じゃないよ。

誰が望んで、最初から自殺してしまうような人生を選ぶのか。

誰が望んで、自分の存在を自分で否定するのか。

そのしんどさを欠片も知らない幸せな人に、どうして最後の私の自尊心まで蔑まれなきゃいけないのか。

ギリギリの所で生きている、死にたい自分を肯定することでなんとか自分を棄てずにいられる。それも否定されなきゃいけないなら、それこそ私は息が出来ない。

 

そんなことしなくたって当たり前に生きていられるまともな人間になりたかった。

 

23年間毎日悪意に浸されて生きて、実の親に刃物を突きつけられて、寄生虫と呼ばれて、生きていることを否定され続けて、それでも真っ当な心を持ったまま普通に生きていける人がどこかにいるなら教えて欲しい。

一体私はどうしたら普通でいられたの?

何も出来なくなってしまった自分を自分でも認められなくて、普通に生きている周りの人たちを見上げて。

もうこの先希望もないのに、まだ飼われて生きながらえていて。あの時死んでいればと何度も思って。何も無いのにひとりで笑ったり泣いたり忙しくて。ついに壊れてきているなぁと感じて。病院に行ったって効きもしない薬が出されるだけで。やっぱりはやく死んでしまいたくて。

 

じゃぁ私はどこでどうしていたら誰かに救われたの?

そうじゃないじゃない。

結局自分は自分でしか救えなくて。だからこれが唯一の私自身を私が護る術な訳で。救う術な訳で。

 

分かっていたって思うのよ。

それだって他の誰かには手を差し伸べてくれる誰かがいつだっているじゃないか。

絶対的な味方がこの世に存在するじゃないか、って。

 

私にはいないから、いるフリをして生きている。自分はひとりじゃないって言い聞かせて生きている。

わかる?私が1番信用していて何でも話せるあの人たちはこの世に存在しないんだよ。

存在しないポジションに、存在する誰かを連れてきてまで生きたかった。そこまでして誰かを信用したかった。もう誰だったか忘れたけど。

信頼関係なんて一瞬で消えて二度と戻らないものだけどね。虚しいね。

 

そこまでして惨めに生きながらえている屑の気持ち、分かるわけないよな。

分からなくていいから、こんな底辺での腐っている死体のことはさっさと記憶から消して、二度と思い出さないでくれ。

 

 

 

 

嘘とパン

今までに食べたパンの枚数も、今までについた嘘の回数も覚えてはいないけど、間違いなくパンより嘘の方がずっと多いと思う。

 

嘘を嘘と見抜くこと

嘘を嘘だと知った上で楽しむこと

嘘を嘘だと気付かれないこと

嘘を嘘にしないこと

 

これが出来ない人は生きづらい世界だ。

 

悪意のある嘘は見抜けなければならない。

悪意のない嘘は楽しめなければ意味が無い。

嘘はユーモアで、コーオペレーションで、自衛で、時に真実になる。

故に嘘は悪だと言い切ってしまうのは安直だ。

 

だから

私はあの人の言っていることが8割嘘なことを知っている。

私はあの人の言葉をフィクションとして愉しんでいる。

そしてきっとあの人も私が嘘に気付いていることをとっくに分かっている。

その上であの人は嘘をつく。フィクションを提供し続ける。

理由が何故なのかは分からないけれど、お互いに嘘の中で生きる関係は心地好い。

そこに責任はない。後腐れもない。所詮は嘘なのだから。

 

こういう中身の空っぽな人間関係、惰性的でとても好き。

 

(時折見えるノンフィクションで心臓を切り刻まれたとしても。)