雀のしっぽ。

フィクションとノンフィクションです。

ごめんなさいで済んだら警察はいらないんだよ

って言うとどこのヤンキーだよって感じだが。

 

私は「もうこいつとはもう縁切るわ!やってらんね!!」って吹っ切れてしまえば言いたい放題言うけれど、後々の付き合いも視野にいれなきゃいけない相手は揉めることすら面倒くさいので「まぁ(何がかよくわかんないけど)私が悪かったよごめんね」で済ませてしまえばいいと思っている節がある。

 

もちろん話して解決することなら多少時間をかけたって話し合うべきだし、伝えずに何も変わらないと言うよりは1度は伝えようとする努力はするべきだと思うけど。

 

でも試してみて「ああこの人には伝わらないな」と思ったら、さっさと匙をぶん投げるべきだと思う。

 

何十年も違う環境で生きてきた相手に自分を理解してほしいというのも馬鹿げた話だと思うし、逆に私だって相手の気持ちなんて汲み取れないし、仮に相手の言っている要望や理屈を理解出来ても、それを納得することは出来ないし、故に私が気持ちや価値観を変えることは不可能だ。

 

 

似た環境で生きてきた人間同士はなんとなく相手を推し量る「才能」が拓けると思うし

逆を返せば、そういう「私を理解する才能のない人」と時間をかけて議論しあったところで、私の気持ちや考えや価値観を本当の意味で理解するのは容易なことではない。

 

普通に考えて、20年以上何をして何を見て何を聞いて何を考えて何を感じて、そうして出来た今の感情を汲み取るなんて全くの他人に出来るわけがないし求めるだけ無駄だし

他人の汲み取れない感情のために、「納得は出来ていないけれど相手の要望を飲むために自分の価値観や考え方を捻じ曲げる」なんて出来ない話だ。

 

 

故に私は適当に謝る。

 

本当は納得のいっていないことを場を収めるために謝るというのは、つまり歩み寄りの放棄だ。

 

そういう時に私の言う「ごめんね」は

「私は謝ったからね。これ以上責めないでね。はいもうこの話終わり!」という試合終了の合図であり、「あなたが私に対して不満を抱いているのは分かったけれど、私はこういう人間であなたのために変わるなんて出来ないからごめんね」の意味だ。

 

私だけじゃなく大概みんな「ごめんなさい」ってそういう使い方してると思うけれど。

LMT(らぶまねーとれーど)

愛は金では買えないが、愛は金で買える物に置換できる

時間や 距離や 花や そういう金で買えるものを以て 愛は量られる

 

そうじゃなかったら愛なんて目に見えない物をどうやって確認するんだ?

証拠もなしに自分が愛されているなんて自信を持てるのは、愛されなかったことがない人間だけだと思う。

 

 

まあだからあの人達はあの人達なりに私を愛したんだろうし

事実この20年間莫大な金をかけてきた

衣食住に困ったことはなかったし

小学校低学年から個別指導の塾に通わせ、私立中学に入れ(しかも1年で辞めて)、また高校受験のために塾に通わせ、私立高校に入れ、大学に入れるためにまた塾に通わせ(しかも大学進学権をポイ捨てして)専門学校に入れた(そしてそれも辞めた)

私立なんて入学金だけで100万飛んでいくわけで、それを何回も繰り返しているから普通の何倍も金はかかってる。

 

だから私は親に愛されて育ったはずで、私は親に感謝しなければならない。

こんなにも愛されて育ったのに真っ当に生きられない自分を恥じなければならない。

 

 

んなわけあるか??しね??

生きたいやつは死ね

今年で23なんだけど、案外周りの友達が結婚したりしてて早いなぁなんて。

 

まぁ実際結婚願望はそんなにない。

だって家族とかよくわかんないし。子供好きじゃないから産みたいとも思わないし。

 

恋人も家族も、同棲してれば同じことじゃない?

あとは書類上形式上の話で。

 

 

昔は結婚して家出て親と縁切っちゃえばそれで終わりって思ってたからさっさと結婚したかったし、自分も「普通の家族」が欲しかったし、安心して眠って安心して目を覚まして生きているだけで幸せだと思えるような場所がほしいと思ってた。

 

実際はそんな単純に考えてた自分はまだまだお子様だったわけで

自分と相手はそれでよくても、結婚するってなったら相手の家族とか親戚とか周りとかの目もあるし

そうなれば私が私の親と縁を切ってどうこうってそんなに簡単なことでもないし

第一、そんな地雷抱えてるやつを相手方の親族が快く受け入れるわけがないのも当たり前だし

 

かと言ってうちの親と関係を保ったまま誰かと結婚して相手の親族や周りの人まで巻き込んで〜とかどう考えたって無理だし

まぁ仮にそうなったら、無駄に外面の良いうちの親があることないこと吹聴して根回しして私だけが悪者になって

味方が誰もいなくなるところまで読めるし

 

(いつもそうだしね)

 

冷静に予想出来るようになってみると

まぁそんなにめんどくさいこと、特別したくもないなぁ、みたいな。

 

誰かと生きていくなんて絶対無理だってわかって諦めている人に

「人という漢字は二本が支えあって出来ている」なんてくだらないこと説いたクソは死んでいいよ。

 

世の中はギブアンドテイクで、与えるものすら持っていない人は受け取ることも出来ないのよ。負の連鎖は断ち切れない。

 

そんなことも分からないでほざいてるのか、それともあなたがどうにかしてくれるわけ?

 

当たり前に生きている人に、当たり前に死にたい私の考えを分かったようなフリされるのとても不快。

 

ギリギリ人間でいたい

昔本かなにかで読んだ。

"ある程度知能のある動物は道具を使うことが出来るが、道具を作り出すことは出来ない。道具を作ることが出来るのは人間だけである。"

 

たしかに、スプーンを使える猿はいても、スプーンを作れる猿はいない。なるほど。

 

スプーンを作るために木を彫る、木を彫るために刃物を作る。

それを当たり前に出来た原始人ってすごくない?

 

目標のための目的を順序だてて行えるって当たり前のようですごいことだ。

 

つまり

シングルタスクで、目標と目的をごっちゃにして、自分の取るべき行動が分からなくなりがちな私は原始人以下と…。

私を育てた人

そういえば母の日なんてイベントがありましたね。

SNSで「母の日だからお母さんにプレゼントをあげた」なんてほんわか投稿を見て、鳥肌立たせて震えてたのは私です。

 

とにかくそれを見て気付いたわけですが、今年は珍しく強制イベント回避したんだ。

 

毎年、誕生日、母の日、父の日とことあるごとに 本人自ら「感謝しろ」「祝え」「何かしろ」と圧をかけてきます。

自ら祝え饗せと喚き散らせるのもなかなかに傲慢だなぁと思うけど

「お前には家族愛が足りない」だとか「優しさが足りない」だとか、挙句はこちらの人格まで否定してくる始末。

 

気に食わなければ「死ね」だなんだと暴言を浴びせ、「寄生虫」呼わばりし、顔を殴って前歯を折り、包丁を突きつけ、そういうことを今までしてきた人間が家族愛を語って自分を饗せとおっしゃる。

 

たまげるよなぁ。

 

まぁ、それがいつものことなんですけどね。

 

「何かしろ」と怒鳴られたら、渋々そこら辺で「クソほど安くて、なんかそれなりにちゃんとしたプレゼントに見えそうなもの」を見繕って買ってきて投げつけるのが定番。

ちなみに食品、消耗品がおすすめです。向こうが気付かないうちに自分で使っちゃえるし。

 

まぁそんなわけで今年は無駄金も使わずに済んで、ラッキーっと思ったなんかの日でした。

クダラネ。

 

母の日って一応世界共通らしくて、母親ってどこの国でも大きい存在なんだなぁなんて考えたりするのだけれど。

 

でもところで、母親ってなんだ?

生んでくれた人?育ててくれた人?

 

私が最初に母親を嫌いになったのは2歳くらいの時だったらしいです。

母親が入院している間に母親の顔を忘れて、退院した母親に全く懐かなかったそうな。

 

それが関係あるのかないのか知らないけど、物心ついた時には母親がなんとなく苦手でした。

なんとなく言いたいことが言えない相手。ワガママを言っちゃいけない相手。

で、妹が生まれるときになって私のぺドが開花して、母親も妹も気持ち悪いと思った。

それが私が6歳の時。逆にその頃は父親大好きだったけど。

 

そのまま母親がなんとなく苦手なまま小学生になって、

小学校高学年になった私が父親に殴られ蹴られするようになった時、それを何も言わずにただ見ているその人を私はもう母親だと思わなくなった。

 

そして今も。

 

暴力を振るってくるわけでもないし、そんなに自己主張がある人でもないから、父親ほどの害はない。

けど、自分の身が1番な人だから父親には一切逆らわないし意見もしない。ただの人形。

 

たしかに私を生んだ。

たしかに家事をしてくれた、育ててくれた。

それは事実だ。

あの人はただの保護者だった人であって、私の母親ではない。

 

なにより

世界共通で大切にされるべき「おかあさん」は

生まれもしなかった娘と、目の前に生きている娘を比べて

「生きていたのがお前じゃなかったら」なんて言葉は きっと口にしない。

 

 

 

自称クズ 多称クズ

同級生がみんな社会人になった。

 

かたや私は今日も今日とて引きこもりをしている。

 

今何してるの?と聞かれるととても困る。

かろうじて生きているよ、としか言えない。

 

私の人生には、「死ぬ」という選択肢があちこちにあった。

他の人が自分の意思で学校を選んで仕事を選んで恋人を選んだように

私はいくつもの分岐点でなんだかんだ生きることを選んでここまで生きてきた。

そして、今日も生きる方を選んでなんとか生きている。

 

生きることが当たり前になりたかった。

 

ヘラヘラ笑ってクズを演じて

まぁ事実クズなんだけど

自分で望んでこうなったような振りをして

なんにも辛いことなんかないようなフリをして生きている。

 

じゃなきゃ、悲しすぎる。

 

クズだからニートやってますって笑っていたい。

体も心も追いつかなくて、ちょっと外出したら寝込んで、バイトすら続かなくて

なんて現実、考えるだけで悲しくなってくる。

 

なんともないフリをして笑っていたい。

それで何にも知らない人に後ろ指差されて「あいつはクズだ」って言われても

それで身近な人に「なんだやっぱり怠けてるだけか」って思われても

 

本当に自分が何も出来ないどうしょうもない人間だって認めてしまったら

もうきっと次は生きている方を選べない。

 

当たり前に生きて 当たり前に仕事をして

そんなつまらない大人にはなりたくないと思っていたけど

なれない のと ならない のは大違いだ。

 

ならないことを選ぶ選択肢くらい、欲しかった。

 

 

夢は覚める 朝は来る そしてまた夜がくる

今日見ているこの夢は 明日には覚めてしまう

 

今日見ているあの月は 明日には欠けてしまう

 

今触れているこの指は 今聞いているこの声は 今目の前にいるこの人は

 

明日に確かなものなんて何ひとつない

いつ崩れるか分からない橋を渡るような人生を

それでも前を向いて生きていかなくちゃなんて。

 

堕ちたその先に救いなんかない。

結局のところ、自分で見つけて自分で這い上がって自分で自分を救うしかない。

そんなことは分かってる。

分かってるはずなんだよ。

 

あと何回私は夢を見て

あと何回夢から醒めて

あと何回現実に絶望して

あと何回自分を恨めば

自分の命を肯定出来るのか。

 

いっそ夢を見たまま、それが夢だとも気付かないうちに、死んでしまいたい。