雀のしっぽ。

フィクションとノンフィクションです。

遺書を書きました

軽い気持ちで死にたいって思うことくらい誰でもあるだろうけど、23年間生きてもう十分だなぁと思った。

 

子供の頃から、一番近しい大人に人格を否定されて暮らしていたら、どこかがおかしくなってしまったようで、普通のことが出来なくなった。普通のことも出来ない自分を大切に出来なくなった。

 

もう何年か前から、早く終わらせたいなぁってそればかり思ってたし

それでも3%くらいの希望に縋って生きてきたんだけど、そんなものないことはとっくに分かってたし

そしていよいよ、何かに期待するココロも、呼吸するだけのカラダも限界になった。

 

当たり前のことが当たり前に出来ない

出来ないことを誰かに言えない

それで普通のフリをして生きている

それが辛いと誰にも言えない

 

「ちゅん」という私はいつも誰かに好かれて、誰かに望まれて、誰かに期待される私だったけれど

「本名」としての私はひとりで籠の中でうずくまっていた。

 

「ちゅん」を演じて「ちゅん」として生きてきた。

ああ、私の名前はなんだっけ。

 

誕生日が来たら、好きな服を着て、好きなメイクをして、好きなアクセサリーを身につけて、好きな音楽を聞きながら、好きな場所に行って、そこで死のうと思っていた。

 

パソコンのHDDを初期化した。

昔書いていた恨み言ばかりの日記を処分した。

集めていた趣味のコレクションをフリマアプリで手放した。

私という人間がここに生きていた痕跡をひとつひとつ拭った。

 

死んで誰かの記憶になんて残りたくなかった。

存在ごとなかったことにしたかった。

生きいたのは私じゃなくて「ちゅん」だから。

「ちゅん」が死んで悲しむ人はたくさんいても、私が死んで哀しむ人は居ないから。

まぁ、そういう生き方を選んだのは紛れもなく自分なのだけれど。

 

終わるまであと何日かって指折り数えた

なんだか気持ちが楽になった。

 

死にたい自分を肯定したら、まだちょっと生きていられる気がした。

それだって生きたいとは思えなかった。

 

それなのにあんな簡単な理由で、私はまだ生きている道を選んでしまう。

23年間の地獄をまだ続けようとしてしまう。

 

どんなに辛くてもどんなに悲しくても、人間は心のどこかで生きていたいと思っている。

きっと生物ってそういうもの。

そう分かっていても、私は生きたい自分を肯定出来ない。

 

当たり前のことを当たり前に出来ない自分を許せない。

生きていいと思えない。

何も出来なくなってしまった自分を認められない。

 

それなのに、また明日も明後日も私は生きている。

 

どうして?

 

 

 

 

バフ解除

なにかの歌で

「愛してる」の響きだけで強くなれる気がしたよ

なんて歌詞があったけれど

本当に愛の言葉は魔法だと思う。

 

その言葉が嘘か真実かはさておいても、愛を囁かれるだけでなんとなく生きていられる、強くなれる、なんだか前向きになれる、まだ頑張れる、ような気がする。

まぁもちろん気がするだけなんだけど。

 

しかし魔法は永続ではないので一定時間経つと効果は切れてしまうし、打ち消し魔法で解除されてしまうし、つまり誰かが隣で定期的に魔法をかけ直してくれないと頑張れそうにない。

 

そしてきっとそんな人が居れば、私は来週もその先も生きていた。そう思った午前四時。

@18

あまり人を信じないし、逆に疑いもしない。

そもそも期待をしない。

 

うっかり思い入れなんてものを持ってしまうと、裏切られたりその期待に背かれたりした時に立ち直れなくなる。

 

なった。

 

何が悲しいのかも、何が悔しいかも、何が辛いのかも、伝えられない。

感情を感情として表現することが苦手だ。

誰かの前で感情に任せて泣いたり笑ったり怒ったりそういうことが出来ない。

そういう自分を第三者目線で見てとても滑稽だし醜いと思ってしまうから出来ない。

私は私が作り上げた私を演じる。本心は無意識のうちに殺す。

 

そうして誰にもいえない苦しさを自分の中に溜めていく。そしてパンクする。

 

 

した。

 

 

人間はみんな誰かに肯定されるから生きていける。

世界のどこかには自分の絶対的に信頼出来る人がどこかに存在して、自分が全てを委ねられる相手がいる。

家族だったり、親だったり、恋人だったり、親友だったり。

 

私はいないけど。

 

だから誰かに肯定しもらうためにSNSで作られた私を演じる。

可愛いねとか、すごいねとか、薄っぺらい言葉で胸に空いた穴を埋める。

そうやって息を吸っている。

 

誰かに肯定されたところで、それを素直に受け入れられなくて、他人から見た自分と本当の自分とのギャップで騙してる気分になって、肯定されるようにならなくちゃって無理をするから結局根本的な解決にはならなくて、何も楽になんてならないのだけど。

 

それでも誰かが「生きて」と言ってくれたら生きていたし

誰かが「信じて」と言ったら信じてきた。

そうしている間はまだ生きていいような気がしていた。

 

私は自分の生を誰かに委ねて生きてきた。

そうまでして理由を作らずには生きられなかった。

当たり前に生きていたいと思う自分を許せなかった。

だから、誰かに生きていることを肯定してもらって、死にたい自分を肯定してもらって生きている。

 

そしてそれを引き止めるものが何もなくなった今、私はあと残りの日数を数えるだけになった。

もうあと残り僅かだって分かっていたって苦しい。はやく終わってほしい。

アスファルトに落ちた蝉ですら死ぬギリギリまでじたばたと藻掻いているというのに、私はもうそんな気力もなくて、この6畳の中で屍と化している。

 

 

あと18日。

今年の誕生日はひとりで地獄に行く。

 

あと18日。

生きていていい理由が欲しかった。

 

あと18日。

はやく終わってくれ。

 

死して尚も死ぬ

いつだって私の死にたい気持ちは私だけのものだ。

何ひとつ分かっちゃいないくせに分かったようなフリをする、そして分からずとも分かりたいと思っているなどと軽々しく言いながらその感情を踏み躙る人に口を出されたくない。触れられたくない。

いじめがあった時に、実態を知っていながら何もしなかった黙認していた、のは加害者と大差ないと言うのだから、これもある意味そういうことだと思う。

加害者だとまでは言わないけれど、当事者から取ったら味方なんて1人もいないんだ。

もしそれでも私に対する好意が、愛情がというなら、1度でも私の中で壊れているものを埋めてくれたことがあったんだろうかと尋ねたい。

私は普通じゃないから、他人と同じ土俵で同じクオリティで行動することですら、私にとっての精一杯だった。ギリギリだった。だからそれすら続かなかった。

でもそれで見切りを付けるならその時点で付ければよかった話で、それを口で分かったと言いながら首を絞め続けていた。

分かったって、何を分かったの?

じゃぁ何をしてくれたの?何を汲んでくれたの?

ああするよこうするよって口先だけだったじゃないか。

 

言われた通り。

普通に生きることすら出来なかったのは私なんだよ。そんなことはわかってる。

でもそれは生ぬるく普通に生きていられる人間が言っていい言葉じゃないよ。

誰が望んで、最初から自殺してしまうような人生を選ぶのか。

誰が望んで、自分の存在を自分で否定するのか。

そのしんどさを欠片も知らない幸せな人に、どうして最後の私の自尊心まで蔑まれなきゃいけないのか。

ギリギリの所で生きている、死にたい自分を肯定することでなんとか自分を棄てずにいられる。それも否定されなきゃいけないなら、それこそ私は息が出来ない。

 

そんなことしなくたって当たり前に生きていられるまともな人間になりたかった。

 

23年間毎日悪意に浸されて生きて、実の親に刃物を突きつけられて、寄生虫と呼ばれて、生きていることを否定され続けて、それでも真っ当な心を持ったまま普通に生きていける人がどこかにいるなら教えて欲しい。

一体私はどうしたら普通でいられたの?

何も出来なくなってしまった自分を自分でも認められなくて、普通に生きている周りの人たちを見上げて。

もうこの先希望もないのに、まだ飼われて生きながらえていて。あの時死んでいればと何度も思って。何も無いのにひとりで笑ったり泣いたり忙しくて。ついに壊れてきているなぁと感じて。病院に行ったって効きもしない薬が出されるだけで。やっぱりはやく死んでしまいたくて。

 

じゃぁ私はどこでどうしていたら誰かに救われたの?

そうじゃないじゃない。

結局自分は自分でしか救えなくて。だからこれが唯一の私自身を私が護る術な訳で。救う術な訳で。

 

分かっていたって思うのよ。

それだって他の誰かには手を差し伸べてくれる誰かがいつだっているじゃないか。

絶対的な味方がこの世に存在するじゃないか、って。

 

私にはいないから、いるフリをして生きている。自分はひとりじゃないって言い聞かせて生きている。

わかる?私が1番信用していて何でも話せるあの人たちはこの世に存在しないんだよ。

存在しないポジションに、存在する誰かを連れてきてまで生きたかった。そこまでして誰かを信用したかった。もう誰だったか忘れたけど。

信頼関係なんて一瞬で消えて二度と戻らないものだけどね。虚しいね。

 

そこまでして惨めに生きながらえている屑の気持ち、分かるわけないよな。

分からなくていいから、こんな底辺での腐っている死体のことはさっさと記憶から消して、二度と思い出さないでくれ。

 

 

 

 

嘘とパン

今までに食べたパンの枚数も、今までについた嘘の回数も覚えてはいないけど、間違いなくパンより嘘の方がずっと多いと思う。

 

嘘を嘘と見抜くこと

嘘を嘘だと知った上で楽しむこと

嘘を嘘だと気付かれないこと

嘘を嘘にしないこと

 

これが出来ない人は生きづらい世界だ。

 

悪意のある嘘は見抜けなければならない。

悪意のない嘘は楽しめなければ意味が無い。

嘘はユーモアで、コーオペレーションで、自衛で、時に真実になる。

故に嘘は悪だと言い切ってしまうのは安直だ。

 

だから

私はあの人の言っていることが8割嘘なことを知っている。

私はあの人の言葉をフィクションとして愉しんでいる。

そしてきっとあの人も私が嘘に気付いていることをとっくに分かっている。

その上であの人は嘘をつく。フィクションを提供し続ける。

理由が何故なのかは分からないけれど、お互いに嘘の中で生きる関係は心地好い。

そこに責任はない。後腐れもない。所詮は嘘なのだから。

 

こういう中身の空っぽな人間関係、惰性的でとても好き。

 

(時折見えるノンフィクションで心臓を切り刻まれたとしても。)

 

 

無題

 

モノクロの空の下 フェンスを伝う雨と 足元の水溜り

6月は僕の嫌いな物ばかりでばかりでばかりで

 

置き忘れてきた傘を取りに戻るのももうなんだか億劫で

イヤホンを耳に詰め込んで 次の世界に飛び込んだ

 

ガラスにうつる 昨日の君をまだ忘れたくなくて

大丈夫ひとりじゃないよ

掴んだことのないその指が まだここにある気がした

だって、こういうの好きでしょう?

 

紫の花弁 カーテン越しの冷たい空気 顎先に逃げる涙

今日はいつもより嫌なことばかりでばかりでばかりで

 

出来損ないの自分を励ますのももうなんだか億劫で

音量をMAXに上げきって 次の一歩を踏み出した

 

劈く悲鳴 軋む音 昨日の夜に似ている

最後に見たのは どんな色だったろう

 

ガラスにうつる いつかの君をずっと見ていたくて

大丈夫それだけでいいよ

偽物ってとっくに気付いてる イマジナリーフレンドにキスをした

だってこれは夢なんでしょう?

 

冷たい石に伝う雫を払って

いいよ まだここにいる

 

 

ごめんなさいで済んだら警察はいらないんだよ

って言うとどこのヤンキーだよって感じだが。

 

私は「もうこいつとはもう縁切るわ!やってらんね!!」って吹っ切れてしまえば言いたい放題言うけれど、後々の付き合いも視野にいれなきゃいけない相手は揉めることすら面倒くさいので「まぁ(何がかよくわかんないけど)私が悪かったよごめんね」で済ませてしまえばいいと思っている節がある。

 

もちろん話して解決することなら多少時間をかけたって話し合うべきだし、伝えずに何も変わらないと言うよりは1度は伝えようとする努力はするべきだと思うけど。

 

でも試してみて「ああこの人には伝わらないな」と思ったら、さっさと匙をぶん投げるべきだと思う。

 

何十年も違う環境で生きてきた相手に自分を理解してほしいというのも馬鹿げた話だと思うし、逆に私だって相手の気持ちなんて汲み取れないし、仮に相手の言っている要望や理屈を理解出来ても、それを納得することは出来ないし、故に私が気持ちや価値観を変えることは不可能だ。

 

 

似た環境で生きてきた人間同士はなんとなく相手を推し量る「才能」が拓けると思うし

逆を返せば、そういう「私を理解する才能のない人」と時間をかけて議論しあったところで、私の気持ちや考えや価値観を本当の意味で理解するのは容易なことではない。

 

普通に考えて、20年以上何をして何を見て何を聞いて何を考えて何を感じて、そうして出来た今の感情を汲み取るなんて全くの他人に出来るわけがないし求めるだけ無駄だし

他人の汲み取れない感情のために、「納得は出来ていないけれど相手の要望を飲むために自分の価値観や考え方を捻じ曲げる」なんて出来ない話だ。

 

 

故に私は適当に謝る。

 

本当は納得のいっていないことを場を収めるために謝るというのは、つまり歩み寄りの放棄だ。

 

そういう時に私の言う「ごめんね」は

「私は謝ったからね。これ以上責めないでね。はいもうこの話終わり!」という試合終了の合図であり、「あなたが私に対して不満を抱いているのは分かったけれど、私はこういう人間であなたのために変わるなんて出来ないからごめんね」の意味だ。

 

私だけじゃなく大概みんな「ごめんなさい」ってそういう使い方してると思うけれど。